光陰
〜クラルテ設定ゴーシ案〜
彼女は試験管の中で産まれた。 フランスの片田舎のとある町にひっそりとたたずむ製薬会社。ここが彼女の産まれた場所だ。二階建ての簡素なビル……と思いきや、地下にはその3倍のスペースが存在している。何処の世界でも非合法組織は地下に潜りたがるものだ。表向きは製薬会社として活動しているが、裏ではある組織の研究所として活動していた。 彼女はそこで選りすぐられたフランス人の父とスウェーデンの母の遺伝子を人工授精し、誕生した。そのまま産まれるのであれば、何の問題もなかっただろう。しかし、彼女を作り出した連中は、それだけでは満足しなかった。そう、それが非合法組織が非合法組織であるゆえんなのだ。 連中は彼女の遺伝子を弄んだ。そう、連中はまともな子どもなど欲しくはなかったのだ。今まで様々な実験をしてきた、連中の今回の目的はアンドロギュニュス――両性具有――を作り出すことだった。 そんな事に意義はあるのかどうかは連中にとって問題ではない。そう、最初は優秀な人類を作り出す事を目標に動き出したこの研究所であったが、いつのころからか、手段が目的化し始めたのだ。今の連中を動かすモノは新しいモノを作り出すと言うことだった。 そういった狂者達の手で作られた彼女は、連中の思ったとおり二つのモノを持って産まれてきたのだ。培養液の中で十月十日を過ごし、彼女は初めて大気に包まれた。私が「彼女」と呼ぶのは、彼女の身体は八割が女性的であり、残りの二割が男性的であるからだ。 保育器で育てられ始めた彼女は、”クラルテ”と所員から名前を付けられた。フランス語で「光明」という意味だ。呪われた身体なのに光明だなんて、皮肉この上ない。 彼女は6歳までその研究所で育った。その間、外出することは許されず、部屋でおもちゃで遊んでいるか、本を読んでいるだけだった。所員は殆どがクラルテに対しては無関心――研究対象としては別だが――であった。一人だけヘンリエッタと呼ばれていた女性だけが、クラルテに対して優しく、折を見ては彼女の元へやってきて、おもちゃや本を置いていくのであった。 クラルテが6歳を迎えてから数ヶ月後、研究所が襲われた。襲ってきたのは、対抗する組織であった。組織間の抗争のとばっちりを食う形で、研究所は襲撃されたのだ。その時クラルテは自分の部屋にいた。この部屋というのが優れもので、エマージェンシーコールがされた時に、部屋に備え付けられたベッドに横たわり、緊急用のスイッチを押すと、緊急脱出をおこなってくれるのだ。いち早く駆けつけてきたヘンリエッタは、外に出ても動かず待っていなさいとクラルテに伝え、緊急脱出させた。 目を開くと、クラルテは洞窟の中にいた。周りを見回すと他に3台のベッドがあったが、もぬけの殻だった。クラルテもベルトを外し、地面に降りたった。洞窟の外から光が差し込んでいたので、そちらに行って見た。初めて踏む地面の感触に戸惑いながら、出口へ向かう。洞窟の出口に辿り着き、外を見回す。クラルテが初めて出会う外の世界だ。「外に出よう」とは思わなかった。初めてのことで怖かったのもあるが、何よりもヘンリエッタが「動かずに待っていろ」と言っていたからだ。 ヘンリエッタは現れなかった。 空腹に耐えながら、クラルテは待ち続けていた。襲われた日からかれこれ3日になる。限界が近いのを感じていたが、クラルテは待つ以外何も出来なかった。その日の太陽が傾き始めた頃には、クラルテの意識はほとんどなかった。ふと意識が遠のき、どさっという音が聞こえた。「なんだろう?」と思っていると、右頬に冷たい感触を感じた。もうクラルテに起きあがる気力はなかった。遠くの方で何か音が聞こえた気がするが、もうどうでも良かった。そして、そのまま意識を失った。 気が付いた時には、ベッドに寝ていた。辺りを見回すが、覚えがない。立ち上がろうと思ったが、身体が重すぎて動けない。疲労のため、思考力も低下しているので、何も考えられなかった。ただ、自分が生きているのはわかった。 ふと、意識の端に音が聞こえた。身体を動かせなかったので、視線だけ音のする方向をみると、扉が開くのが見えた。そして、扉から黒と白の服を身に纏った高齢の女性が部屋に入ってきた。彼女はクラルテが起きているのに気が付いてこういった。 「あら、起きたのね。良かったわ。私はシスターケイトと言います。このベルロン教会の修道女です」 そう言って彼女は微笑んだ。クラルテの思考は麻痺していたが、その笑顔で自分が助かったんだと再確認した。そしてケイトは「今はゆっくりおやすみなさい」と言った。その笑顔に安心したクラルテは、すぐに眠りに落ちていった。 衰弱も思ったより酷くなかったようで、気が付いてから1日後には杖を使ってなら歩く事が出来るまでに回復した。これも遺伝子操作の結果なのかも知れないが、当のクラルテはそんなことを知らない……。 ある程度体調が良くなったので、ケイトはクラルテに事情を説明し、何故倒れていたのかなどを尋ねることにした。クラルテはこの村に住む老人が散歩の途中で偶然発見した。そして、この教会に運ばれたのだと言うことを説明された。その後、クラルテはケイトから色々尋ねられた。だが、クラルテはケイトからされる質問にどう答えて良いかわからず、「わからない」と呟いたまま俯いてしまった。 ケイトはクラルテには身寄りが無さそうだったので、クラルテをこの教会に引き取る事にした。もちろん警察には届け出を出したが、こうも情報が少なくてはきっと無駄だろう。わかっているのはクラルテという名前と年齢ぐらいだ。 そんなこんなでクラルテはベルロン教会のシスターとして生活するようになった。クラルテにとって幸いなのは彼女がまだ両性具有だという事が露見していないことだった。もしこれが発覚していたら、教義の中で禁忌の存在である彼女は即刻追放――あるいはもっと酷いことを――されていただろう。 保護されてからクラルテは幸せな日々を過ごした。皆優しく接してくれ、クラルテは初めて人間らしい生活を送ったのだった。特に面倒を見てくれたのが、10歳年上のマチルダだった。彼女も孤児であり、同じ境遇のクラルテの事を、放っておけなかったのだろう。彼女はクラルテにいつも気を使い、修道女としてのイロハを教えてくれた。クラルテもマチルダの事を「お姉ちゃん」と慕い、彼女の後をくっつくようにして日々を過ごした。 しかし、そんな幸せな日々は長くは続かない。教会に住むようになってから半年が過ぎたころ、それは起こった。クラルテが寝ようとベットで横たわっていると、ドアが開く音が聞こえた。起きるのがめんどくさかったので、視線だけをドアの方へ送る。そこにはマチルダが立っていた。クラルテは起きあがり、「こんな遅くにどうしたの、お姉ちゃん?」と聞いた。マチルダはその問い「うん」とだけ答えてクラルテの座るベットに腰をかけた。クラルテは不思議そうにマチルダの顔を見つめる。と、次の瞬間、唐突にマチルダにキスをされた。不意をつかれ、何が起こっているかわからないクラルテは、そのままマチルダのされるがままだった。気が付いたときには、クラルテは上着を脱がされ、下着姿になっていた。怖くて身体が動かない。それでも必死に声を絞り出す。 クラルテ 「……お姉ちゃん?」 マチルダ 「大丈夫よ、優しくするから」 「何を?」と思う間もなく、クラルテはマチルダに弄ばれ続けた。敬虔な教徒がいるなら、当然不信心な教徒もいる。マチルダは後者に当たる。彼女はこれまで、孤児になった子どもが教会に入ってくると、必ず教育係になっては、このような行為を繰り返していたのだった。クラルテで3人目の獲物だ。前の二人は養子にもらわれていって、この教会には残っていない。3人目ともなると手慣れたモノで、マチルダは流れるような手つきでクラルテを弄ぶ。っと妙な事に気が付いた。下腹部に妙なふくらみを感じるのだ。今までの二人では感じたこと無い感触だ。まるで男のモノのような……。不思議に思い、再び手で感触を確かめる。 ……何かがある マチルダは視線をクラルテの下腹部に移す。不自然に盛り上がるショーツが視界に入ってきた。パニックになりそうな自分を抑え、マチルダはショーツの中に手を入れる。 そこに在ってはならないモノが在った。 我を忘れて、クラルテのショーツを降ろす。見てしまった。叫びたい衝動を必死に抑える。身体はクラルテから必死に遠ざかろうとする。しかし、パニックにより脳内の伝達が上手くいって無いのだろう。エネルギーを大量に消費している割に、身体にそのエネルギーが伝わらない。 今までかわいらしいと思っていたモノが、一瞬にしてバケモノに変化した。その恐怖は計り知れない。クラルテが「……お姉……ちゃん」と発した。その言葉と同時に、マチルダの脳からの伝達がようやく身体の隅々まで行き渡り、恐ろしい早さで部屋から逃げ出した。一人残されたクラルテは呆然とするしかなかった。 その事件があった1週間後からクラルテは密かに虐められるようになった。最初はマチルダだけだったが、負の感情というモノは感染するモノで、徐々にその勢力を広げ、1ヶ月後にはほとんどの修道女から無視されるに到った。負の感情の伝染と共に、虐めも成長するモノで、3ヶ月後にはそれは立派に虐待と呼ばれるモノへと成長を遂げていた。 クラルテは何故マチルダが恐れたのか、何故自分が虐められるのかわからなかった。結局その事がわかったのはあの事件があってから半年後の事だった。自分が禁忌の存在であるということをわかって、クラルテは虐められる事が必然であると自覚した。その事を自覚してから、クラルテの感情は加速して閉ざされていった。 そして教会に引き取られてから4年後、クラルテは教会を出ることになった。その理由はマチルダが2年前養子に出され事に端を発する。 マチルダが養子に出された家は、上流階級の家だった。そこで可愛がられたマチルダは、自分の中に巣くう恐怖を新しい家族に打ち明けたのだった。その話を聞いたマチルダの義父は、得意先であるイギリスの富豪のマダムに話したのだ。 何故話したのか。 そのマダムは特殊な性癖の持ち主だと有名だったからだ。その話を聞いたマダムはすぐに動いた。あらゆるコネを使い、クラルテを引き取ったのだ。そういった経緯でクラルテは海を越えてイギリスの富豪の元へ引き取られていったのだった。 「引き取られた」と言ったのは「養子に迎えた」ということではない。体裁上は養子に迎えるという事だったが、実際は使用人として雇われているに過ぎなかった。使用人というより、奴隷と言った方が意味合い的には近しいのかも知れない。 それではここで、クラルテの平均的な一日を追ってみよう。 08:00に起床。使用人としては遅過ぎる起床だが、クラルテだけはこれが特別に許される。その後身支度を整え、食事をとる。 09:00、他の使用人と合流し、雑務をこなす。クラルテは主に邸内の掃除を担当する。 12:00、昼食をとる。午後からは女主人に付き従い外へ出かける。クラルテのような美しい娘を連れて歩くことは、その世界ではステータスの一部として見られるため、彼女はは美しい服を着させられる。また、出かける予定が午前からの場合は午前の雑務は無い。女主人が泊まりに行く場合も基本的にクラルテは付き従う。 19:00、夕食をとる。クラルテはここからしばしの自由時間を過ごす。ちなみに他の使用人達は18:00に夜勤の使用人と交代する。 22:00、大体の場合、クラルテの部屋に女主人からの直通電話がかかってくる。そして、「夜の務め」へとクラルテは赴く。「務め」とはもちろん夜伽の相手であり、もっと適切な表現をさがすなら「生きる愛玩道具になりに行く」というべきだろうか。クラルテは通常2時間ほど「務め」を果たし、部屋に帰り眠りにつくのだ。 そういった日々が1年間、ほぼ毎日続いた。歳を取るに連れて性欲が薄くなるなんて何処吹く風。女主人は毎晩クラルテを部屋に呼んだのだった。元々感情の起伏が少なかったクラルテであったが、修道院と使用人としての日々を経て11歳を間近に控えた頃には、ほとんどの感情が閉ざされてしまった。 しかし、1年が立った頃になり始めると少しずつ女主人はクラルテを遠ざけるようになった。外出に連れて行く頻度も徐々に減り、夜は呼ばれなくなり始めた。さすがのクラルテもこれには焦った。このままでは屋敷を追い出されかねないのだ。そう思ったクラルテは焦った。といってもその表情は無機物より少しマシ程度の感情しか表れていなかったのだが。 クラルテは必死に考えた。だが、どうしていいのかわからない。そうこう悩んでいるだけで、日々は過ぎゆき、クラルテも逼迫した状態にどんどん追いつめられていった。 そんな中、クラルテは相談相手を見つけた。初めて出来た友達かもしれない。その相手をクラルテは見たこと無い。でも、困って悩んでいるとどこからともなく現れて、クラルテに囁きかけ、相談にのってくれるのだった。”彼女”――声から判断して――は、クラルテとは正反対の性格だった。感情豊かで、大人で、しっかりしていて、話が上手い。似ているのは真面目なところぐらいか。 日を追う毎に会話の量が増えた。最初は2、3日に1回ぐらいだったのだがすぐに毎日になり、すぐに暇さえあれば話すようになっていった。会話の量と比例する様にクラルテの記憶の飛ぶ量が増え始めた。 最初は、1時間ぐらいのモノだったが、徐々に増え始め、1ヶ月後には朝起きて部屋を出てから、19:30に自室へ戻るまでの間の記憶がなくなった。自分が気が付かずに仕事をさぼっていて、すぐに使用人長が叱りに来るかと思ったが、そういうことも無かった。そして1ヶ月半後にクラルテは”彼女”からあることを打ち明けられたのだ。”彼女”がクラルテの記憶のない時間に代わって働いていたこと。その間とても上手くやっていたこと。そして今日これから久々に夜伽の相手――生ける愛玩具――に呼ばれていることだ。クラルテは女主人の相手をするのがとても嫌だった。相手をしている時に、表情には毛ほども表れていなかっただろうが、とてもとても嫌だったのだ。”彼女”揺れているクラルテに更に追い打ちをかけた。 「最後のチャンスだよ」 そう、最後のチャンスなのだ。これで女主人の機嫌を損ねるようなことがあれば、クラルテはきっと屋敷を追い出されてしまうだろう。ここを追い出されたらいける所など何処にもないのだ。それは死を意味する事を直感的にクラルテは理解していた。だが、クラルテには女主人の期待に応えられる自信がない 「私が代わってあげようか?」 クラルテは反射的に頷いていた。見えない相手に頷いたところで伝わるのかどうかは定かではない。だが、”彼女”には伝わった。そして”彼女”は優しくクラルテに囁いた。 「……おやすみ」 その言葉を最後に幼いままのクラルテは永い眠りについた。 クラルテと代わった”彼女”――これからはクラルテと呼ぶ――はその晩の務めを上手く果たした。いや、むしろクラルテは主人の籠絡に成功したと言っても過言ではないだろう。それぐらい、女主人はクラルテを溺愛するようになったのだ。 その晩以降、女主人はクラルテを使用人としてではなく、愛人としては扱われるようになった。具体的には、外出する時の付き添いと、夜の相手は依然と代わらないが、それ以外の時間は教養その他を身につける時間になったのだった。 そんな時が数年続き、気が付けばクラルテは17歳になった。主人の溺愛は変わらず、むしろ年を追う毎に溺愛は深まったという呈ではある。そのおかげで、クラルテは持ち前の頭脳を活かして、教養を深め数カ国語を話せるようにまでなっていた。 しかし、そんな時は突然終わりを告げた。女主人が死んだのだ。夜中の急性心不全であった為、朝使用人が起こしに行ったときには既に冷たくなっていたのだ。葬儀が恙なく行われ、諸々の引き継ぎも行われた。 新しく屋敷の主人になったのは、女主人の息子だった。クラルテは息子――これからは主人と呼ぶ――によって酷使された。クラルテは知らなかったのだが、彼は彼女のことを嫌っていた。いや、むしろ憎んでいたと言っても良いだろう。彼にとってはクラルテは母――彼にとってはかけがえのない――を自分から奪った奪掠者に他ならなかったからだ。クラルテが入れ替わり、女主人の寵愛を一身に受け始めたと同時に、母は息子から興味を失ったのだ。しかし、母が興味を失ったからといって、息子の愛が薄れるわけではない。むしろその思いは募る一方だ。なんとかこちらを振り向かせようとしたのだが、努力は一向に報われず、水泡に帰すばかり。そして、彼は失意のまま、母の元から逃げるようにしてフランスへ留学したのだった。 そんな彼だから、母を自分から奪ったクラルテの事が憎くてしょうがないのだ。大学も卒業し、若くして母の後を継いだ彼は膨れあがったクラルテへの憎しみと共に、この屋敷へ戻ってきたのだ。それからのクラルテの日々は以前と比べて180°変わった。日々18時間労働を強制され、しかも肉体的にきつい仕事が主だったため、クラルテはどんどんやせ細っていった。 何度も逃げようと思ったが、外の世界を知らないクラルテにとっては、未知の世界で生きることは恐怖以外の何者でもなく、既知の世界で働いていた方が少なくとも安心できたのだ。自らを助けるためにもう一人の自分――今のクラルテ――を作り出した結果、現在の自分の首を絞めているなんてなんという運命の皮肉だろう。 そんな苦難の日々が2年過ぎ去ってクラルテは19歳になった。重労働等のせいで、明るかった性格は既に面影が無くなり、ただの真面目で仕事熱心な使用人と化していた。昔のクラルテと、明るかった頃のクラルテを足して二で割ったらこういう風になるのかも知れない。実際そうだったのかも知れないが、真相はわからない。相変わらずクラルテは重労働をさせられていたが、2年も経てば否応なく慣れてくるもので、以前より辛くはなくなった。そんなクラルテを見て、主人は満足できるはずはなかった。彼はクラルテが苦しい顔をしてこそ満たされるのだ。そして、彼は決断をした。 冬のある日、いつものように掃除をしているクラルテに、使用人長が話しかけた。 「御主人様が年の瀬に日本へ発つのだが、そのお供にクラルテ、お前をを連れて行くと、おっしゃっていたぞ」 「私……ですか?」 その後、使用人長は委細を話し、去っていった。使用人長は、クラルテが日本語を話せるからじゃないかと言っていたが、クラルテにはすんなり納得できなかった。しかし、クラルテに選択権は無く、何があろうとも年の瀬には日本へ行かなければならないのだろう。 そして、いよいよ日本へ向かう日がやってきた。行程で主人はクラルテには全く話しかけはしなかった。いつもの待遇から、座席はエコノミーだと思っていたのだが、なんとクラルテの席はファーストクラスに用意されていた。訝しく思ったが、やはり上流階級ともなると、使用人であるとはいえ連れには変わりないため、体裁上ファーストクラスに乗せたのだと思いなんとか自分を納得させた。 日本についてから、クラルテは自分の出番がやってくると思いきや、通訳は別に用意してあり、出番は全くなかった。クラルテはわけがわからなかったが、主人について行くことしか出来ないので、大人しくその行程に従っていった。 日本で言う三が日が終わった頃、主人が初めてクラルテに話しかけた。 「お前はクビだ」 その言葉は、クラルテの理性を破壊するのに十分だった。その言葉の意味を理解しようと務めるが、他の部分がそれを拒絶する。 そう主人が決めたのはクラルテの廃棄だった。もうクラルテの顔を見て辛い過去を思い出す事は止めようと思ったのだ。イギリスに置いておいたら、何かの節に連絡があったり、戻ってきたりするかも知れない。主人はクラルテを離れたところにおいやりたかったのだ。そこへ舞い込んできた日本行きの仕事。是幸いとばかりに、クラルテを連れ出し、日本へ置いていくことを決めたのだった。 クラルテの動揺を尻目に、主人は言葉を続けた。 「帰りの航空券にお前の分はない」 クラルテは言葉の意味を理解できず、ただ、主人の言葉を繰り返すだけだった。言うべき事を言った主人は、既に車に向かって歩き出していた。その姿を見て、ようやくクラルテは我を取り戻し、主人に追いすがる。 「私なんでもしますから!どんなことでもしますから捨てないでください!お願いします!どうか……どうか捨てないでください!」 涙と嗚咽のせいで、まともにそういえたかどうかはわからないが、クラルテはそのような主旨の言葉を吐いた。 主人はクラルテを睨め付け、こう言い捨てた。 「俺はお前が憎い」 そう言って、車に乗り込んだ。ドアの閉まる音が無情に響く。それでもクラルテは必死に車に取りつき「置いていかないで」と繰り返した。だが、車はエンジンを回転させ、車体を前方へと移動を始めた。クラルテは必死に追いすがるが、車はすぐにクラルテを振り切り、車からもクラルテからも見えない所へ走り去った。 残されたクラルテは呆然とし、笑うしかなかった。今が早朝でホテル街のため人通りが少なかったのが逆にクラルテの孤独感を助長した。 逃げ出したいと思っていた事はあったが、さすがに置いて行かれることは想定していなかった。それにここは慣れ親しんだイギリスではなく、完全に未知の世界である日本なのだ。クラルテは必死になって昔読んだ日本の文献の事を思い出し、そしてこれからのことを考えた。幸いクラルテは日本語が話せるので、言語的には問題がない。しかし、働こうにも身分証明書はパスポートしかなく、しかもそれは観光用だった為、働くためには使えなかった。しかも手持ちは出発前に渡されていた1万円のみだ。 それからクラルテは放浪生活を始めた。まず着ているモノを古着屋で売り払い、金に換え、安い服に着替えた。その金と1万円を元手に食いつなぎながら、日本を学びそして、働き口を探すことにした。条件は最低で身分証がごまかせるところ。そして、あわよくば住み込みで働けるところだ。 日本を放浪してわかったことがある。まず不況は思っていたよりも深刻だった。外人のしかも19の小娘など雇ってくれる企業など何処にもなかった。その上身分もあやふやと来ていると、もうまともな仕事は全くなく、いかがわしい店しか働けそうになかった。過去の愛玩具としての記憶は二人の人格が重なったときに封印されていたのだが、クラルテはそう言った店で働きたくなかった。というのも、無意識的に折角の出発の門出をもう汚したくなかったのだろう。そうクラルテはもう充分汚れてきたのだから。 クラルテは東京での仕事を諦め、横浜へと移動した。ある公園のベンチで休憩しているとき、チラシが前に落ちてきた。クラルテはそれを無造作に拾い上げ、内容を見てみた。
「……このアホっぽい感じいけるのでは?」と脳裏によぎったのは必然なのか偶然なのか。クラルテは即断で応募することにし、拾ったテレホンカードで書いてあった番号へ電話をした。 電話に出たのはうだつの上がらない感じの男のひとだったが、非常に優しそうでクラルテは好感触だった。電話の時に「ほとんど応募がないんだよ〜」とかいきなりぼやいてたり、「テストが近いんだよ〜」とか泣き言を言っていたけど、総じて良い感触だった。「二十日にテストがあるから21日の13時ににチラシに書いてあった場所に来てください」との事。クラルテはそれまで、なんとか耐えしのごうと決意した。 もうお金も底をつきかけていたし、これが最後のチャンスだ。クラルテはなんとしても受かるために、月下之茶宴について出来うる限り調べた。電器屋に入りインターネットに接続しているPCを探し、スペックを確かめるフリをしながら月下之茶宴を少しずつ調べた。横浜市内の電器屋を何軒も渡り歩き、最後になけなしの金でネット喫茶に入り、1時間で最終調整をした。 そのおかげで、クラルテは月下之茶宴についてのことなら、ほぼ何でも知っているというぐらいの知識を得た。もともとは対決シリーズだったことから、月下之茶宴のリンク先のサイトの方々、特に盗賊 改さんとゴーシさんという方が重要であること、三日月に書き込んでいる方々の名前等についてまで調べ上げた。特に非日常日記については数回読み返した。まーじゃさんについても出来うる限り調べた。もう何を聞かれたって怖くないぐらいの自信はある。まーじゃさんはきっと「まーじゃ様」って呼ばれた方が気に入るだろう、とか。メイドが好きらしいから、私の使用人として過ごしてきた経験を活かして、よりまーじゃさんの喜びそうな振る舞いもできそうだ。 ついに、21日の朝がやってきた。朝ご飯は奮発してメロンパンを買った。甘いモノを久しぶりに口にして、クラルテは気力を充実させた。駅のトイレで身だしなみを整え、準備万端で試験場への道を歩いた。 落ちるかも知れないとは不思議と思わなかった。 チラシが、自分の前に飛んできたのは偶然ではなく必然であるように思えるのだ。 立ち止まり澄んだ冬空を見上げる。 蒼い空にうかぶ太陽が眩しい。 小鳥のさえずりが、クラルテを応援しているように聞こえる。 今日は……良い日になりそうだ。 完 |